T-ALLを「知って治す」ブログ

T-ALLを「知って治す」

自身の病気「T細胞性急性リンパ性白血病」を調べ、理解し、治療と正面から向き合うことを目的とします。

闘病の区切りに寄せて 〜過去・今・これから〜

2021年4月22日の外来。「今日で抗がん剤は全部終わりです。長かったね」と主治医に言われ、闘病者としての自分に、大きな区切りがつきました。

がんになったと聞くとショックを受けるのが常でしょう。でも、僕は全く違っていました。白血病だとわかったその日から、病の自分をごく自然に受け入れました。「何で自分が?」と思ったことも一度もありません。受け入れたというより、わざわざ受け入れるまでもない事実でした。したがって、特に動揺することもありませんでした。そういう態度は、周囲に「落ち着いている」とか「強い」と言われる場合が大半でした。が、決して褒められるようなものではなかったと思います。

当時は、自分を俯瞰するように生きていました。俯瞰するというのは、自分の感覚や情熱よりも、状況に重きを置くということです。つまり、「何をしたい」ではなく「何ができる」「何をやるべき」と考えて自己を制御することです。多くの大人がそうしているように。シンプルに事実に目を向ければ、何事も受け入れるのは簡単でした。

発がんは、解釈を加えなければ、ただの確率的な結果に過ぎませんでした。白血病は特定の原因もないとされています。自分で制御できる部分もなかったわけだから、すべては運だと捉えました。だから、親友に入院当初、「がんになりました、ハズレくじだね」とLINEを送りました。彼はのちに「あまりに軽い表現に驚いた」と言っていましたが、自分としては等身大の感想でした。驚かれることが驚きでした。

命についても、俯瞰すれば同様でした。生きていることは当たり前であり、ゆえに、死に向かうことも当たり前でした。運命を変えられるとも、変えたいとも思っていませんでした。ただ、生きることには真面目でありたい、という思いがありました。せっかく生を受けたのだから、もう少し生きてみたかった。僕は「生きたい」のではなく、「生きるためにできることをやる」ために闘病に向かいました。

これは今思えば、生きている自分から遠ざかることによって、楽をしようとする態度でした。宿題を後回しにする子どものように、自分の人生を後回しにして、本質的な問いを考えないようにしていたに過ぎません。病や老いや死をまだ知らぬ、多くの若者がそうしているように、生を消費していました。もっとも、がんになっても彼らと同じように思っていたのですから、僕は相当に思慮不足でした。

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けれども、闘病を経て、どんなことよりも、「生きている」ということが嬉しかった瞬間がありました。これは驚くべき純粋な感情でした。なんの前提条件もなく、自分が今あるということに感動できたのです。それはいろんな場面で感じました。

病院の窓から見る青空。
退院時に病院の正面玄関をくぐる時。
あるいは、夜の病床でのふとした瞬間。

この感情はきっと、生そのものより、生を願う人たちに、僕は学んだのだと思います。

主治医はいつも明るくて、自信と勇気をもらいました。明るいだけでなく、非常に優秀な方で、複雑なプロトコルを正確にマネジメントしてくださいました。献身的に看護してくれた看護師さんたちとの間には、たくさんの深い思い出があります。

母は400キロも離れた実家から毎週のように来てくれました。父は多忙な日々を縫って買い出しのわがままに付き合ってくれました。名古屋からはるばる来てくれた大学の友達、バイト仲間。日常を感じさせてくれる瞬間が、励みになりました。

それぞれのやり方で生きようとする闘病仲間。彼らの無事を喜ぶとともに、逆に、自分の無事も誰かに喜ばれているということを知りました。それだけでなく、散った命もありました。しかし無念だとは思いません。彼らは生き切った、そう思いたいし、僕もいつか思われたいのです。真剣に生と向き合った、と。

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そして、人生を俯瞰するのをやめました。生きているこの時間そのものに目を向けたくなりました。何をするか、何を残すかより前に、「生きる」という有り難さがあることを知りました。生がいかに脆く、儚く、ゆえにかけがえがないか。

あるいは、俯瞰する必要がなくなったとも言えます。幸いにも、「やるべきこと」と「やりたいこと」を結びつけることができました。僕は今、医用画像処理の研究をしています。次の春からは、血液疾患にも関わる医薬品の研究を行う予定です。

大学院の医療系教育プログラムの申請書にこう書きました。

自分の命が今あるのは,医師であり研究者でもある病院の先生方が効果的な治療法を編み出してきたからであり,それは決して偶然の産物ではなく,彼らの日々の研鑽によるものである.学びが人を救うということへの感謝と希望を胸に,闘病経験者ならではの強い目的意識を持って,学習や研究を進めていけると,確信している. 

「学びが人を救う」− それは事実です。たった50年前の医学では、僕はとっくにこの世にいられませんでした。僕は間違いなく、医学という学問に命を救われたのです。医学の進歩には、医師らの執念にも似た努力があったはずです。僕は医師にはならないけれど、生きるために何かしたいという思いは、共通して持っていたいと思います。それは本当に強力な感情で、きっと、力になると思うのです。

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多分、もう闘病していた頃の気持ちとは違います。

「日常のありがたみは失わないとわからない」とよく言いますね。僕は、「失っている間しかわからない」のではないかと思います。戻ってきた自分には、もうわからないのです。

最初の一時退院で、普通の街並みが外国に見えたとき。
悩みに悩んで決めた唐揚げ定食の一口目。
「次は名古屋」の新幹線のアナウンス。

もうあの頃感じたような、日常への感動はありません。けれど、それもまたいいのかなと思います。だって、闘病者であった僕らは、僕らしか共有しない時の流れを、ある意味誇らしく思っていたようにも思うからです。想像では補えないのです。本当に何にも代え難い時間だったし、あの場所、あの時だからこそ得られた心地なのだと思います。

闘病が過去である今、すべては「治った(と思える)から言えること」かもしれません。今後どう思うかはわかりません。でも、いいのです。今、自分の人生を幸せだと思える、それが何よりも嬉しいのです。

2021年5月30日 C7